2014年8月22日金曜日

高次脳機能障害とリハビリ

小児脳腫瘍の経験者の晩期合併症として高次脳機能障害があります。

 小児がん経験者の高次脳機能障害をテーマにしたセミナーを計画しているところですが、橋本圭司著「高次脳機能障害のリハビリがわかる本」によると「高次脳機能障害はリハビリできる」といいます。

小児脳腫瘍由来の高次脳機能障害がどの程度リハビリできるかは定かではありませんが、原因が交通事故による脳外傷であろうと急性脳症などの病気であろうと「後天的な脳損傷の後に現れる高次脳機能障害はリハビリできる」とされています。

〇低次の脳機能と高次脳機能

まず、高次脳機能とは何でしょうか?

感覚機能(五感)、運動機能(手足を動かす)、生命維持機能(呼吸、心拍、睡眠)などが比較的低いレベルの基本的な機能であるの対し、高いレベルの認知機能のことを高次脳機能と言います。記憶、意識の集中・持続、物事を段取ること、感情のコントロールなどのことです。

○発達障害と高次脳機能障害

全国に発達障害のこどもは100万人いると言われるています。

発達障害とは生まれつき(先天性)の脳機能障害を言います。自閉症やADHD(注意欠陥・多動性障害)、LD(学習障害)などがあります。これに対し高次脳機能障害は脳の機能に問題なく出生した子どもが病気やケガによって脳を損傷し、症状が出た状態で後天性なのです。

しかし、衝動性の強さや注意力の低下、コミュニケーションの困難など類似の症状があります。

大人の高次脳機能障害の場合は加齢や脳血管障害の影響によって認知機能が低下する認知症と診断されることがあると言います。しかし認知症は進行性のものが多く、リハビリに期待できるのは脳機能の維持に限られるのに対し、高次脳機能障害はリハビリによる脳機能の改善が見込めるとされています。

 ○高次脳機能障害のうつ状態とうつ病の違い

頭のケガで前頭葉を損傷した人やくも膜下出血で脳全体にダメージを受けた人は意欲が低下し、話す・動く・考えるなどの行為を自分からはじめることができない状態を示すことがよくあるとされています。そのためうつ状態であると診断されることがあるようですが、これは通常のうつ病ではないため、きっかけづくりのリハビリをすれば状態が改善する可能性があるとされています。

 これまであまり小児がん領域で言われてこなかった、いろいろな発見があります。

 これらのことについてこのブログで今後もう少し詳しく取り上げていきます。
 

2014年8月13日水曜日

水平軸から垂直軸に、立ち位置を変える(人生が私に何を期待しているのか)


先日の小児がん脳腫瘍全国大会でフランクル研究の第一人者である山田邦男先生に「実存的苦悩とどう向き合うか」についてお話しいただきました。


ヴィクトール・フランクル(1905-1997)は、オーストリアの精神科医、心理学者で、ナチス強制収容所での体験を元に著した『夜と霧』は、日本語を含め17カ国語に翻訳され、発行部数は、英語版だけでも累計900万部に及びます。
まずは有名な言葉「あなたが人生に何を期待するかではなく、人生があなたに何を期待しているのか?が大切なのだ」について、山田先生に翻訳されたそれでも人生にイエスと言う』から次の文章を見てみましょう。

あるとき、生きることに疲れた二人の人が、たまたま私の前に座っていました。・・・二人は、声をそろえて言いました、自分の人生には意味がない。「人生にはもう何も期待できないから」。二人のいうことはある意味では正しかったのです。けれども、すぐに、二人のほうには期待するものがなにもなくても、二人を待っているものがあることがわかりました。・・・そこで大切だったのは、カントにならっていうと「コペルニクス的」ともいえる転換を遂行することでした。それは、ものごとの考えかたを180度転換することです。その転換を遂行してからはもう、「私は人生にまだなにを期待できるか」ということはありません。いまではもう、「人生は私になにを期待しているか」と問うだけです。人生のどのよう仕事が私を待っているかと問うだけなのです。
 ここでまたおわかりいただけたでしょう。私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。(それでも人生にイエスと言う』VE・フランクル著 山田邦男/松田美佳訳 p26,p27


そうです。問うているのは人生の側で、私たちは問われている存在として自分でその意味を見出して行かなければならない、ということです。

そして山田先生は、実存的苦悩とは何かをふまえた後で、「実存的苦悩をいかにして克服するか」について、いくつか文献や例を挙げながら丁寧にお話しいただきました。


そこで示された苦悩の克服方法の1つに「水平軸から垂直軸へ価値観を転換する」というものがありました。

水平軸とは・・・ 相対的、有限、物質的、相克的  

垂直軸とは・・・ 絶対的、無限、精神的、相乗的


水平軸とは・・・ 富、地位、学歴、美貌、健康など  

垂直軸とは・・・ こころ、愛、美、真理など


水平軸とは・・・ 自己中心的、我欲的

垂直軸とは・・・ 存在中心的、無我的


水平軸とは・・・ 自分のため

垂直軸とは・・・ 自分は何のために


水平軸とは・・・ 「私は人生から何を期待できるか」

垂直軸とは・・・ 「私は人生から何を期待されているか」


 水平軸とは・・・ 苦しみの原因 


 垂直軸とは・・・ 喜びの源泉

水平軸の価値観とは私たちの多くが無意識に抱いている価値観です。それに対し、垂直軸の価値観とは、言われれば「ああそうだ」と思えるものの、なかなか意識しないと持ち続けることの難しい価値観、しかしながら間違いなく尊い価値観であるといえます。

「このことをどう考えるのか?」と自問したとき、発想を180度転換して物事を見てみることが、苦悩を乗り越える一助になるのかもしれません。

2014年8月12日火曜日

ソーシャルビジネスとしてのソーラー農場

NPO法人エスビューローでは「ソーラー農場エスファーム」という名目で太陽光発電事業を開始しようとしています。

 いまなぜ、小児がん支援NPOであるエスビューローがソーラー農場なのでしょうか?

 その答えは、一言でいうとソーシャルビジネス化を図ろうとしている、ということです。

 ソーシャルビジネスとは、経済産業省のホームページではこう説明されています。

地域社会においては、環境保護、高齢者・障がい者の介護・福祉から、子育て支援、まちづくり、観光等に至るまで、多種多様な社会課題が顕在化しつつあります。このような地域社会の課題解決に向けて、住民、NPO、企業など、様々な主体が協力しながらビジネスの手法を活用して取り組むのが、ソーシャルビジネス(SB)/コミュニティビジネス(CB)です。

このソーシャルビジネス、もとは2006年にノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌスによって提唱されました。ムハマド・ユヌスはバングラディッシュで貧民層を対象としたマイクロクレジット(少額融資)を可能にしたグラミン銀行の創始者です。

ムハマド・ユヌスの言うソーシャルビジネスにはタイプ1とタイプ2があります。

タイプ1は、出資者に配当を出さず、利益の替わりに社会指標改善を目標にする、というものです。

例えばグラミン銀行とヴェオリア・ウォーターとの合弁会社であるグラミン・ヴェオリア・ウォーターの場合、目標は「バングラディッシュの3500万人にヒ素のない飲み水を提供すること」です。

 しかしながら対象は貧困層であるため、高額な水道料金を負担できません。そのため、これを成り立たせるための戦略が必要となります。

それが

内部相互補助crosssubsidization)
 
と呼ばれるものです。

 Bという採算の困難な事業を、Aという事業によって得た収益によって補います。

具体的には、貧困層への水道システムを、都市部への電力サービスによって得た収益で補うことで成り立たせているのです。

今回のエスビューローのソーラー農場はこのタイプ1のソーシャルビジネスです。

 
太陽光発電事業で得た収益で小児がんNPOの活動費を補うという内部相互補助(crosssubsidization)の戦略をとることによって、不安定な非営利事業を安定かつ確実なものにしようとしているわけです。

 
そして、その利益が出資者に分配されることはありません。

 
一単位の規模としては30072kWモデルを想定しています。
 



















 
そして、小児がん経験者が事業の所有者になるタイプ2のソーシャルビジネスも構想しています。

 ユヌスの言うタイプ2のSBとは、貧しい人々が所有し(雇用される)営利企業、のことです。

その典型例がグラミン銀行です。

グラミン銀行は竹細工で生計を立てる人や生活雑貨を訪問販売する農村部の女性などに無担保で少額の低利融資を行い彼女たちの自立を助けてきました。(彼女たちはそれまで不当な高利貸しから資金を借りざるを得なかったのです)

 そして一定額以上を積み立て貯金することを義務づけ、蓄えたお金で彼女たちに株主になる道を拓いたのです。これによって彼女たちは事業を所有し、毎年10%の配当収入を得ることができるようになりました。

これがタイプ2のSBです。

これをソーラー農場に当てはめると

5012kWモデル(年間売電収入約50万円)というものが見えてきます。



サバイバーが小さなソーラー農場を所有することで20年間の安定収入を得て自立の一助とする、これはそんなに無理のあるアイデアでしょうか?

 ソーラー+の空間を活用して


   ソーラー+生きがい農園(園芸)

   ソーラー+陶芸

   ソーラー+アート

   ソーラー+料理

 

 
この一年の間に実証モデルを作ってみたいと思っています。

 

2014年8月11日月曜日

Let It Go ♪♪

7回小児がん脳腫瘍全国大会のエンディング曲は「アナと雪の女王のテーマソング」Let It Go♪でした。LBLさんがリードし、子どもたちが合唱しました。

 ありのままの姿みせるのよ~♪
Let it go  let it go~

のあの曲です。

ところで今回の大会の大きなテーマの一つは「実存的苦悩とどう向き合うか?」でした。

 それについてはフランクルや神谷美恵子さんの例を引きながら、山田邦男先生に丁寧にお話しいただけたのですが(その内容は別途掲載します)、実はこの最後に子どもたちがステージで合唱したこのタイトルLet It Goこそ、「実存的苦悩とどう向き合えばよいか」の1つの答えであることに気づきました!

偶然のようですが、そうなんです。曲をアレンジし、子どもたちを指導してエンディングをプロデュースしてくれたLBLの皆さんもこう言うと驚かれると思いますが、本当にそう考えることができるのです。

Let it goは「ありのままに」と訳されていますが、直訳的には「行かせる」であり、「手放す」「明け渡す」とも訳されLetting Goとほぼ同じ意味であると思われます。似た言葉ではビートルズの名曲Let It Beがあります。

 この言葉を理解する上で、当日会場で皆さんにお配りした孤立うつ対策ハンドブックの第3章ACTその1アクセプタンス(P33~P42)が大変参考になります。ここにその全文を掲載しえおきますので、ぜひ目を通してみてください。

その意味は一言でいうと

 

「防御しないで『今この瞬間』、完全に受け取る」

 

です。

 
(以下、ハンドブックより引用)

ACTその1 アクセプタンス

2章で三木先生を思い浮かべるというエクササイズを通して、体験の回避が不安や怖れの解消に役立たないことを見てきました。ここでいう体験とは行動を伴うような外的な体験だけをいうのではなく、内面的に生じている感情や思考、身体感覚などを含めて体験といっています。不安や怖れは、それをもちたくないと思って回避すればするほど逆にもつことになってしまうのです。それはまるでチャイニーズ・フィンガー・トラップのようだとACTではいいます。


チャイニーズ・フィンガー・トラップとは、人差し指くらいの大きさに編んでいる筒です。

両端に人差し指をゆっくり奥まで入れて、その後、指を抜こうと引っ張ると、筒は絡まり締め付けられます。すなわち、力を入れて引っ張るほど、筒は小さくなって、かえって指が抜けなくなってしまうのです。指を抜くためには、反対のことをします。つまり筒を引っ張らずに押し込めばよいのです。すると、指の周りにすき間ができて簡単に抜くことができます。

「人生はチャイニーズ・フィンガー・トラップである」と考えると、指を一生懸命引っ張っている状況は、「もがけばもがくほど、逆に身動きが取れなくなってしまう」を表し、押しこむと逆にすき間ができて、指を抜けることは、「もがくことをやめると、新しい選択ができるような余地が生まれてくる」ことを表しています。

 

では実際に、不安や怖れとどう付き合っていけばよいのでしょうか?回避の反対をやればいい、例えばもっと不安になりたいと思えばいいんだ、というのは間違いです。そう考え行動する動機の根底に不安をなくしたい、不安を感じないようになりたい、という思いがあるからです。

ACTが奨める「体験の回避」とはまったく異なる対処の方法とは、ウィリングネス、アクセプタンス、「あるがままに、そのままに」といったことばであらわされるものです。

アクセプタンス(Acceptance)を英和辞書で引くと「受け入れ」「受容」などの意味が出てきます。またウィリングネス(Willingness)とは「快く進んですること」、「いとわないでする心持ち」であり、with willingness「進んで」「喜んで」のように使われます。

不愉快な体験(思考や感情)を我慢して受け入れるのではなく、しぶしぶ受け入れるのでもなく、心を開いて受け入れる意味合いを含んでいます。そのニュアンスを表現するためアクセプタンスに加えて補助的にウィリングネスという単語を使います。

「あるがまま」、「そのままに」とはどういうことでしょうか?「ACTをはじめる」の原書Get Out of Your Mind and Into Your Life: The New Acceptance and Commitment Therapyでは英語でLetting goと書かれています。Let goは「行かせる」すなわち「手放す」という意味です。握っていたものを手放す。不安や心配との格闘をやめ、綱引きしていたそのロープを手放すのです。その不安や心配を何とかしようとどうこうしないということです。邦訳書では「何もしないをする」と表現されていますが、なかなか素敵な表現です。

ザ・ビートルズのレット・イット・ビー(Let it be)という曲をご存知でしょうか?これも同じような意味です。堅く言うと「そのままにあらしめよ」ということになります。これは智恵の言葉だとポール・マッカートニーによって歌われています。

ACTのアクセプトとは「防御しないで『今この瞬間』、完全に受け取る」というものです。

例えば広場恐怖症の人が、体験を回避しようとしないで、そうした場所(例えばショッピングセンター)に出かけたとしましょう。しかし内面では恐くない、恐くない・・・とか、もう少しのがまんだ・・・とか思って心理的に完全に防御しているなら、これはアクセプトとはまったく言えません。

アクセプタンスとは、コントロールできないことをコントロールしようと格闘することを止めることです。

コントロールできることとコントロールできないこと。

じつはこのことは分かっているようで、あまり分かっていません。そして思考や感情は何となくコントロールできると思ってしまっていることが多いのです。

ためしに次のうちどれがコントロールできることで、どれがコントロールできないことだと思いますか?これは「不安、心配、恐れから自由になるマインドフルネス・ワークブック―豊かな人生を築くためのアクセプタンス&コミットメント・セラピー(ジョン P.フォーサイス、ゲオルグ H.アイファート著)」に記載されているエクササイズの一つです。まずはトライしてみて下さい。

自分にコントロールできることとできないこと


深く考えずに、次の文章を読んで、自分がコントロールできると思う状況の番号に〇をつけて下さい。自分にはコントロールできない状況の番号には〇をつけないでください。
  
 

1.   他の誰かが今考えていること

2.   自分が下す決断

3.   自分がどれほど緊張するか

4.   自分が他の人にどう対応するか

5.   他の人か何に価値を置き、大切に思うか

6.   ある状況で自分が何を言い、何を行うか

7.   自分がときどき抱える心配

8.   自分が望む人生の方向

9.   自分の選択や表現した思考、感情、行動に他の人がどう反応するか

10.  自分が他の人に対してどう振る舞うか

11.  他の人が下す選択

12.  自分が不安になったときに何をするか

13.  同じ思考やイメージが自分の頭にどのくらいの頻度で戻ってくるか
   

14.  自分の思考や感情(肯定的なものでも否定的なものでも)に自分はどう反応するか

15.  他の人がルールや規範に従うこと

16.  自分が決めたことをやりとげるかどうか

17.  他の人が何をするか

18.  自分が何らかのルールや規範に従うかどうか

19.  自分が他の人から好かれること

20.  自分が仕事に備えて準備をし、ベストを尽くすか

21.  自分がその時々でどう感じるか

22.  この地上での貴重な時間に自分が何をするか

23.  ときどき自分に浮かぶ考え

24.  自分が価値を置くことや大切に思うこと
 
  さあ振り返って、あなたが〇をつけた番号を見てください。奇数の番号はすべて、あなたにはまったくコントロールできない状況です。あなたはそうは思わないかもしれませんが、ふり返ってよく考えてみれば、こうしたシナリオのどれも、あなたにコントロールできないことが分かるでしょう。
そしてこのコントロールに関連してもう一つ、「ウィリングネスのスイッチ」というエクササイズを同書から紹介したいと思います。何がコントロールできるものでなにがコントロールできないのか?不安はコントロールできません。ウィリングネスは感情ではなく態度であり、行動であるためコントロールできるのです。

   

ウィリングネスのスイッチ

 
あなたの目の前に2つのスイッチがあると想像して下さい。どちらも照明のスイッチのようにオン/オフの切り替えがあります。1つのスイッチは「不安」と呼ばれ、もう1つは「ウィリングネス」と呼ばれています。どちらのスイッチもつけたり切ったりできるように見えます。この本を読みはじめたとき、あなたはおそらく不安のスイッチを切る方法を見つけたいと思っていたことでしょう。あなたは幾度となくやってみました。そしてそれは間違った期待であることが分かりました。不安のスイッチのオン/オフつまみは作動していなかったのです。あなたは不安の犠牲者であるかのように感じ、自分を無力に思うかもしれません。そしてあなたのマインド※は「がっかりだ」と言うでしょう。あなたは何度も何度も失望します。

では、あなたに秘密を教えましょう。ウィリングネスのスイッチのほうが本当は不安のスイッチよりも重要なのです。なぜなら、あなたの人生に変化をもたらすものだからです。不安のスイッチとはちがって、ウィリングネスのスイッチはコントロールできます。ウィリングネスの場合、あなたは無力な犠牲者ではありません。なぜなら、スイッチはあなたの行動によってコントロールできるからです。覚えておいてください。これはあなたが反応の仕方を決められるものなのです。ウィリングネスのスイッチを入れるかどうかはあなたが選ぶことなのです。ウィリングネスのスイッチを入れたらあなたの不安がどうなるか、私たちにはわかりません。わかっていることは、自分でそう決めたら、あなたは本当にスイッチをオンにできるということです。そしてあなたの人生は前に進みはじめるかもしれません。自分が本当にしたいと思うことを始め、価値ある人生の墓碑銘が指し示す方向に踏み出すことができるかもしれません。
 

※「こころ」と表現すると、heartの意味に近くなるため「こころ」の理性的論理的な側面を強調するため、mindをそのままマインドとカタカナで表記しています。以降の章についても同様です。

 
いかがでしょうか?どのようにアクセプトすればいいか、少し分かってきたのではないでしょうか。

コントロールできないもの(例えば不安)は、コントロールしようと格闘する(チャイニーズ・フィンガー・トラップに入れた指を抜こうと引っ張る)のではなく、起こるがままにまかせる。あるいはむしろウィリングネスという態度で迎える。チャイニーズ・フィンガー・トラップの指を押すように。

さてもう少し、ウィリングネスということのイメージをはっきりさせるために、「ACTをはじめる」からたとえ話を紹介しましょう。



ウィリングネスは、嫌な来客を歓迎するときの心構えと同じ

娘の結婚式のために、遠い親戚をあなたの家に招待している場面を考えてみてください。招待した親戚たちは、みんな出席予定の人たちです。昔遊んでくれたアキラ叔父さん、悪ガキ仲間のアキヒコ、最愛の妹アイコ。何十人もの親戚があなたのもとにやってきて、とても楽しい時間を過ごしています。あたりを見回して、ひとりひとりの顔を見るほどに、喜びがこみ上げてきます。皆、とても明るく楽しそうです。そのとき、あなたの家の前に1台のタクシーが停まりました。その途端、あなたのこころは沈みました。そうです。車からブツブツ言いながら降りてきたのは、あの偏屈なアニータ叔母さんだったのです。風呂にはめったに入らないし、誰とも打ち解けないし、楽しいことを話す様子など誰も見たことがない、そんな叔母さんです。しかし、あなたは、親戚の人たちに全員に対して「どんな人でも大歓迎です」と言っていました。

 さて、ここで質問です。アニータ叔母さんを心から歓迎することはできますか?あなたは本心では、彼女に来てほしくなかったはずです。多くの人がこうした状況を体験したことがあるでしょう。そしてその答えも知っています。「歓迎する(welcoming)」ことと「欲する(wanting)」ことは違うということです。あなたは、アニータ叔母さんを歓迎し、家に招いて、その存在を認め、近況を尋ね、話の輪に招き入れることができます。そうしているのは、あなたが家族を慈しみ、アニータ叔母さんも家族の一人だからなのです。たとえば、「このパーティーはアニータ叔母さん抜きでやろう」などと決める必要はありません。大切なのは、彼女の来訪を拒まず、進んで迎え入れることです。

 逆に、こんな場面も想像できます。あなたが「この叔母さんは絶対パーティーに入れない」と決心したとしましょう。彼女の目の前で玄関のドアを堅く閉め、彼女がノックしても、あなたはノブをしっかりつかんで叫びます。「出て行ってください。もう来ないで!」と。おそらく何か良からぬことが起こるにちがいありません。もうパーティーなんておしまいです。どんなことをしても、もう楽しくはありません。あなたはアニータ叔母さんを入れないということだけで精一杯です。他の客もみんなこの騒ぎに影響を受けるでしょう。彼らはイライラしたり、起こりだしたり、あなたのやったことについて説教したり、あるいはそっといなくなってしまったり、リビングの隅のほうに固まってしまったりするでしょう。彼らがリビングから去っていけば、余計にアニータ叔母さんだけに注意が集中してしまいます。そして、あなたは玄関のドアの前から一歩も動くことができません。あなたにとってパーティーは終わってしまったも同然です。

 今度はアニータ叔母さんを追い出すのではなく、自分の思いにこだわるのをやめることを決心したとしましょう。すべての客人を歓迎するという最初の決心に沿って行動します。あなたはアニータ叔母さんに、デザートやオードブルの場所を教えます。決してアニータ叔母さんにいてほしいと願っているわけだはありません。でも、そうすることで、叔母さんがどこにいても、あなたも他の客もパーティーを楽しく続けることができます。みな自由に歓談し、リビングから外へと自由に出入りができるのです。もちろんアニータ叔母さんも含めて。

 
■マインドフルなアクセプタンスを学ぶ

どのようなアクセプタンスを学べばよいか?その一つ目のキーワードはウィリングネスでした。もうひとつのキーワードは「マインドフル」です。すなわち「マインドフルなアクセプタンス」が重要であるということです。

(注)ここでいうマインドフルのマインドは前述の理性的、論理的側面を強調したマインドとはニュアンスが異なります。

ではマインドフル(mindful)とはどういうことでしょうか?

 英語では

Just be mindful!「気を配りなさい」

To be mindful of safe driving. 「安全運転を心がける」

というように使います。

 「心に留めて」とか「注意して」「気を配って」というような意味の形容詞です。

人といるときに相手に気を配ったり、大勢でいるときにその場のみんなに気を配ったり、運転している時に歩行者や他の車にスピードの出し過ぎなどに気をつけることだと考えてよいでしょう。私たちは、「考えごとしてないで気をつけるのよ!」などと言います。「よそごと考えていて事故にあわないようにね」などと言います。

周りのことによく気がついているのがマインドフルな状態といえます。何かを思い出して過去の記憶の方に気持ちが行ってしまっていたり、何か未来のことを心配してそのことを考えてしまっている状態はマインドフルではありません。

いまごろ彼女はどうしているかな?といった、ここ以外のちがうところ(場所)に気持ちが行ってしまっている場合、今している運転や、今行われている授業を聴くことがおろそかになっているような注意力を欠いた状態もマインドフルではありません。

今していること、本来すべきことに気持ちが入っていることがマインドフルであるといえます。

「今ここ」にしっかりと心が錨を下ろしているのがマインドフル(mindful)であり、「心ここにあらず」の状態がマインドフルではない(mindless)といえます。

研究者のジョン・カバットジン(マサチューセッツ大学医学大学院教授)のマインドフルなアクセプタンスの定義はこうです。

「特別なやり方で、すなわち、意図的に、今の瞬間に、判断せずに、注意を払うこと」

 今この瞬間に

私たちはみな今この瞬間を生きていますが、心はすぐに私たちをどこか別の場所に連れて行きます。シャワーを浴びながら、今日の面接はうまく行くだろうかとか、昨日の嫌なことを思い出したりしています。身体はシャワーを浴びていても、頭はちがうところにいます。私たちは誰もが容易に今から引き離されることがあるのです。そのことを意識し「今ここ」に注意を払います。先ほど書いたように心ここにあらずというマインドレスな状態では、心は今ではなく、過去を思い出していたり、未来を見つめていたりします。またここ以外の場所、空間を想像しているかもしれません。そして考えが膨らみ関連づけ、行動するという従来の習慣パターンにしたがって人や状況に反応してしまうことが多いのです。そうではなく、「今この瞬間」に意識を戻すことがマインドフルなアクセプタンスのためには大切です。


意図的に

今この瞬間に注意を払うためには意識的にそうする選択をしなければなりません。一日を通して何度も何度も繰り返し注意を払っていくのです。このスキルの目的は、それが起きたときに気づき、目的をもって行動するよう、再び気持ちを向け、実際に何が起きているかにもう一度気づくためのものです。頭がどんどん勝手にしゃべっていたり、何か漠然と満たされない気持ちを埋めようとネットサーフィンをしていたりする時に、「おーとっと」と気づいて、目的を持った行動に戻る、それを何度も折に触れて繰り返すことが大事です。


判断せずに

私たちはみな自分のすることすべてを評価し判断する傾向があります。良いか悪いか、正しいか間違っているか、快か不快か、すべきかすべきでないか、などなど。これは第2章でみたヒトが身に付けた関係づける能力によるものです。状況や他人、そして自分自身の思考や感情、行動について判断を下し、連鎖反応的に判断と苦悩が増していきます。仏教でいう二本目の矢を受けてしまうのです。「これはひどい!」「なんてバカなんだ!」「おれは何でそんなことをしたのか!」「もう耐えられない!」「また同じことの繰り返しだ。」このようなことは、不安や怖れとの格闘の燃料になります。あらゆる判断は、現実のものではない、幻想を作り上げます。先入観、固定観念を持たず、「曇りなき眼でありのままを見る」ことが大切なのです。


「今この瞬間に」はACTその4で、「判断せず」は、次のACTその2で詳しく見て行きます。

(引用以上)

いかがでしたでしょうか?

Let It Go♪ すばらしい言葉ですね。