2016年8月23日火曜日

過去との共同体感覚

当団体は阪大病院で小児がんのため子どもを亡くした母親らが中心となって、当時の主治医らが協力する形で2000年に発足したNPO法人です。
 
今日は少し特別な日なので、アドラーのいう共同体感覚のうち、「過去との共同体感覚」について書いてみようと思います。
 
共同体感覚とは、ありのままの自分を受け入れることができ(自己受容)、ここにいてもいいと感じられ(所属感)、他者は仲間であると信頼でき(他者信頼)、自分は他の人の役に立っているという実感がもてる(貢献感)、そんな対人関係の感覚であるといえます。

ですから通常は、学級や職場あるいは近隣の地域など現在自分が所属しているコミュニティに対してもつ感覚なのですが、アドラーは未来との共同体感覚、過去との共同体感覚、さらには生きとし生けるものを超え、宇宙まで含めた共同体感覚にまで言及しています。

「未来との共同体感覚」とは、http://nagaalert.hatenablog.com/entry/2016/06/26/174914
に書かせていただいたように、NHKの朝ドラ「とと姉ちゃん」で、祖母役の大地真央さんが話した言葉がまさにそうです。

木材ってのは、いま植えたもんじゃない
40年、50年前に植えたものが育って商品になる
だから植えたときは自分の利益にならないのさ
それでも40年後に生きる人のことを思って植えるんだ
次に生きていく人のことを考えて暮らしておくれ

 「次に生きていく人のことに思いを馳せられる」、これがまさに「未来との共同体感覚」でしょう。

では「過去との共同体感覚」をどのように考えればいいのでしょうか?

冒頭に触れたように当団体の原点には、阪大病院での小児がんの闘病生活がありました。二人の子どもの短かったけれども深い生があったこと。その生があったからこそ当団体が発足し、16年を経て現在に至っているのです。これまでも、そして今も、その生は当団体に、当団体の活動に、当団体の理念に、当団体のビジョンに息づいています。

その生がなければ、私たちの世界、特に当団体に関わるメンバーの見る世界はまったく違った世界になっていたでしょう。

当団体は存在していなかったでしょうし、小児がん脳腫瘍全国大会も開催されていないでしょう。そこで発信してきた数々の知見についても皆さんへの伝わり方は大きく違っていたことでしょう。

人と人との関係も変わっていたでしょう。私自身もこの活動に関わっていなかったでしょう。人生は大きく変わっていたに違いありません。

彼らの短くて小さな生は、どんなに大きい影響を与えてきたのか。いや今も与え続けているのか。そのことに思いを馳せるとき、驚くほどの縁起(仏教でいうところの)を感じざるを得ません。

縁起とは英語でdependent co-arizing と表現されると昔読んだ何かの本に書かれていました。「相互依存的連携生起」と訳されるそうですが、亡くなって尚、相互に関係しあい、そこに息づき、新たなものを創造し続けているのです。不思議ですね。

亡き親に対してそれを感じる人もいるでしょう。恩師にそうした感覚を感じるかもしれません。お盆には先祖にそうした思いを感じた方もおられるでしょう。

そしてその実感こそが、「過去との共同体感覚」なのではないでしょうか?

今日という特別な日に思いを寄せてこれを書き記しました。

2016年7月1日金曜日

アドラー心理学に対する短絡的な誤解や批判について

読売オンラインに岸見一郎氏が書かれた記事はこちらです。
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20160627-OYT8T50061.html?page_no=1

アドラー心理学に対してしばしば短絡的な解釈による誤解や批判があるといいます。小児がん領域においても、大切ではないかと思ったポイントを以下に抜き出しました。

アドラーは、行為だけでなく人生についても、自分の運命を変えられないものと見たり、不幸なままであるとは考えたりせず、「自分は自分の運命の主人である」(『性格の心理学』)と考えた。

短絡的な批判①(アドラーの考えは)「あなたの不幸はあなた自身が選んだものである」「病んだのは本人のせいである」というような自己責任論だという批判をされることがある。
...
しかしアドラーは、自分の行為について、その選択の責任は自分にあるといっているのであり、(自分の選択に対して責任を問うのは必要なことですが)「あなたが選択したのだから、その選択に伴う責任はあなたにある」と、選択したことで窮地に陥った人を責めたり、そのような人を自己責任だとして救済しないことの理由にするのは間違っているし、アドラーの思想とは関係がない。

短絡的な批批判②アドラーは「誰でも何でも成し遂げることができる」といった(『個人心理学講義』)。これに対しては、遺伝のことなど考えれば、何でも成し遂げることなどできないという批判がされてきた。

しかし、アドラーの主眼は、才能や遺伝などを持ち出し、自分はできないという思い込みが生涯にわたる固定観念になる可能性に警鐘を鳴らしているのである。

短絡的な批判③アドラー心理学は「人生は思いのままになる」というようなポジティブ思考だという批判をされることがある。

過去につらい経験をした人は、そのことがトラウマとなって今不幸であると思ってしまいがちだ。
アドラーがトラウマを否定したのは、私たちはつらい経験をしても生きていかなければならないからであり、自分が取り組まなければならない課題に対してトラウマを理由に回避してはいけないからである。

2016年6月17日金曜日

存在していること、それ自体が貢献である

「えらかったね」という褒めことばよりも、「ありがとう」、「たすかったよ」という言葉の返しの方が、子どもに貢献感を持たせることができ、勇気づけることができる、と岸見一郎氏はいいます。

そしてそれは何も行動に限ったことではなく、「存在そのものに注目する」ことが大切ですと昨日の講演(@帝国ホテル)でも話しておられました。

「存在そのものに注目する」とはどういうことでしょうか?

講演では岸見先生のお父様やお母様の例を出して話されていたように記憶していますが、『嫌われる勇気』ではこう書かれています。(以下引用)

P209
わたしが勇気づけの概念について説明すると「うちの子は朝から晩まで悪いことばかりして、『ありがとう』や『おかげで助かった』と声をかける場面がありません」と反論される親御さんがいます。・・・

あなたはいま、他者のことを「行為」のレベルで見ています。つまりその人が「なにをしたか」という次元です。たしかにその観点から考えると、寝たきりのご老人は周囲に世話をかけるだけで、なんの役にも立っていないように映るかもしれません。そこで他者のことを「行為」のレベルではなく、「存在」のレベルで見ていきましょう。他者が「なにをしたか」で判断せず、そこに存在していること、それ自体を喜び、感謝の言葉をかけていくのです。
・・・
存在のレベルで考えるなら、われわれは「ここに存在している」というだけで、すでに他者の役に立っているのだし、価値がある。これは疑いようのない事実です。
P210
・・・
たとえば、あなたのお母さまが交通事故に遭われたとしましょう。意識不明の重体で、命さえ危ぶまれる状態だと。このとき、あなたはお母さまが「なにをしたか」など考えません。生きていただけで嬉しい、今日の命がつながってくれただけで嬉しい、と感じるはずです。・・・
存在のレベルに感謝するとはそういうことです。
・・・
同じことはあなた自身にもいえます。もしもあなたが命の危険にさらされ、かろうじて命をつなぎとめたとき、周りの人々は「あなたが存在していること」自体に大きな喜びを感じるでしょう。・・・自分のことを「行為」のレベルで考えず、まずは「存在」のレベルで受け入れていくのです。
・・・
P211
ありのままのわが子を誰と比べることもなく、ありのままに見て、そこにいてくれることを喜び、感謝していく。理想像から減点するのではなく、ゼロの地点から出発する。そうすれば「存在」そのものに声をかけることができるはずです。(引用ここまで)

この節のタイトルは

ここに存在しているだけで、価値がある  です。

行き詰ったときに、ぜひ思い出してほしいことばだと思いました。

2016年6月12日日曜日

小児がん経験者の親こそ、アドラー心理学の「勇気づけ」を学ぼう!


アドラー心理学のキーワードのひとつに、「勇気づけ」という言葉があります。
 『アドラーが教える親子の関係が、子どもを勇気づける!だからやる気が育つ!
叱らない子育て』(岸見一郎著)にこう書かれています。

以下p112より引用)
アドラー心理学では、子どもを叱らず、ほめもせず、「勇気づける」ことをすすめます。子どもを勇気づけるとは、一言でいえば、子どもが自分の人生の課題に取り組めるように援助するということです。
 人生の課題というのは対人関係のことです。大人だけでなく、子どもにとっても対人関係は悩みの種になるものです。しかし、人はだれも一人では生きていけない以上、対人関係を避けることはできません。対人関係を避けることなく、何とかしてそこに入っていけるように援助することを「勇気づけ」というのです。
 その勇気づけのために「ありがとう」や、後で見ますが、「助かった」という言葉をかけてほしいのです。(引用ここまで)

そして、「ありがとう」や「助かった」という言葉をかけることで、子どもは「貢献感」をもて、「自分を好きになれる」といいます。

 P123から引用)
どんな時に自分に価値があり、そんな自分のことが好きになれるかというと、自分は役立たずと思っていたけれど、こんな私でも「役に立てている」と思える時、自分に価値があると思え、そんな自分のことが好きになれるのです。

 こうした工夫は、「クラス会議」に組み込まれています。ですからクラス会議を行う学級では、生徒は小児がん経験者を含めて誰しも「勇気づけ」されることになります。

  もう一人のアドラー心理学の第一人者、岩井俊憲氏はこう書いています。

 HPより引用)
アドラー心理学では、技法面での「勇気づけ」を重視します。
 現代のさまざまな問題行動の背後には、勇気をくじかれた状態が見え隠れしています。
 勇気があれば、1998年から2011年 にかけての14年間で毎年自殺者数が3万人を超え続けることもなかったであろうし、人間関係が破壊的になるはずがないとも考えられます。
 子ども達の問題行動の背後にも勇気の欠如が見られます。
 今こそ、日本のあらゆる分野で勇気づけが必要です。

 「勇気づけ」の方法を学び、それを家庭生活においても行ってほしいと思います。

学校で「勇気づけ」られる機会があり、家に帰っても家族に「勇気づけ」されるなら、きっと人生の課題に立ち向かう力を、獲得できるはずです。

2016年6月4日土曜日

クラス会議の効果~四日市市教育委員会の調査研究より~

アドラー心理学を応用して、「いじめのない温かい学級づくり」をすすめる手法として「クラス会議」が注目されています。

四日市の教育委員会は、2014年にクラス会議の効果についての研究結果「共同体感覚を育むクラス会議の活用に関する研究」をまとめ、公表しています。

以下4つの項目すべてにおいてクラス会議の実施前と実施後で向上が確認されています。とても興味深いです。

http://www.yokkaichi.ed.jp/e-center/nc3/htdocs/?action=common_download_main&upload_id=2173

この調査の対象は四日市市内の小学校4年生。男子16名、女子21名の計31名です。

平成25年10月から11月まで2か月間で毎週1回計8回クラス会議を実施しています。

上記アンケートはその実施前と、8回終わった実施後に回答を得て比較しています。

1)自己受容(3.23⤴3.36)
あなたは苦手な部分も含めて自分のことが好きですか...
なたは自分のことを大切にしていますか


2)所属感(3.32⤴3.50)
あなたのクラスは居心地がいいですか
あなたはメンバーの一人であるという気持ちはありますか
あなたはクラスのみんながいてくれてうれしいなと思いますか

3)信頼感(3.063.24)
あなたはクラスで大切にされていると思いますか
あなたはクラスのメンバーを信頼していますか
あなたのクラスは自分達で自分達の問題を解決しようとすることができますか

4)貢献感(3.063.41)
あなたは人のためにはたらくことが好きですか
あなたはクラスのみんなのために役に立つことができると思いますか
あなたはクラスのみんなを大切にしていると思いますか


特に、注目したいのは所属感や貢献感において発言の少なかった発話少数群(1時間当たりの平均発話回数1回未満)の方が値の上昇が顕著だったことです。

このことは、もともとクラスに対する共同体感覚が強い子どもよりも、むしろそうした意識の希薄な子どもたちの方に大きな効果が表われたことを示しています。

クラスの中心的なメンバーよりも、あまり目立たない、口数の少ない子どもの方がむしろ意識が変わった、仲間意識を感じるようになった、ということです。

このことは、クラスの中で疎外感を感じやすい晩期合併症のある小児がん経験者にとっても、朗報といえるのではないでしょうか。

2016年5月30日月曜日

インクルーシブとアドラーの共同体感覚

新しい団体案内でエスビューローのビジョンを次のように表現しました。

エスビューローの新たなビジョン。それはインクルーシブです。...
インクルーシブ(inclusive)とは何でしょう?
「すべてを含んだ」 という意味に訳されますが、反対の意味をあらわすエクスクルーシブ(exclusive)という単語があります。
「(特定の仲間だけで)他人 を入れない、排他的な」という意味です。ですので、インクルー シブとは「仲間はずれにしない(ならない)」ことだといえます。

闘病中の小児がん患児や晩期合併症のある小児がん経験者をはじめ、あらゆる心身機能・構造に不全のある人も、「みんなちがっ て、みんないい」(金子みすずさんの詩)のであって、仲間として 互いが認め合い、排除されることがあってはなりません。 インクルーシブとは、互いが対等で、信頼でき、つながれることであり、他者を仲間と思える関係のことです。
子どもたちが手を つないだ団体のEsマークは「誰もが欠かせない存在であること」 を暗示しています。普通に誰もが「ぼくたち、わたしたち」と思う ことができ、「ここにいてもいいんだ」と感じられる、そんなインクルーシブをエスビューローは目指してまいります。

130万部を超えるベストセラーとなった岸見一郎氏の「嫌われる勇気」にはこう書かれています。

他者を仲間だと見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを、共同体感覚といいます。(p179)

すなわち、誰もが共同体感覚を持てるようなクラス、級友を仲間と見なし、自分の居場所があると誰もが感じられるクラス、そんな学級ができるなら、それはそのままインクルーシブの実現なのだと思います。

では、共同体感覚がもてるようになるには何が必要なのでしょうか?

「嫌われる勇気」では、共同体感覚を持てるようになるには、自己受容、他者信頼、他者貢献の3つが必要になる(p226)と書かれています。

自己受容とは、60点の自分を、そのまま60点として受け入れた上で「100点に近づくにはどうしたらいいか」を考えること。(p228)

他者信頼とは、他者を信じるにあたって一切の条件を付けないこと。(p231)

他者貢献とは、仲間である他者に対してなんらかの働きかけをしていくこと。貢献しようとすること。(p237)

です。

そして、これら3つを育む具体的な手法として「クラス会議」(大会第2日目森重裕二氏の講演)があります。

インクルーシブの実現→共同体感覚の掘り起こし→手法としてのクラス会議

なのです。

大会の1日目と2日目はこうしてつながっています。担任教諭はじめ皆さまの参加を期待しております。

「アドラーに学ぶ、生きる勇気」
http://www.kokuchpro.com/event/e29cae72cb3ea783f2465045fb77c4d7/


2016年5月14日土曜日

生命の躍動を発見し、参加へと育てる


2015年度のWAM事業の一つの成果である冊子『わが子の「よりよく生きる」を実現するICF活用の手引き』が完成しました。
 
 
 
その一番最後が私の最も言いたい部分でしたので、ここに再掲させていただきます。
 
なお、全文はHPからPDFをダウンロードできますので興味のある方はご覧ください。
(以下、PDFのp23~p26より再掲)
 
この冊子は、平成27年度の助成事業の一環として作成されました。園芸療法プログラムを試行的に実施し、このセラピーを受けた小児がん経験者(男子4人)のアセスメントをICFを活用して行いました。この4例と、ケーススタディで本冊子の中で取り上げた4例(計8例)を眺めながら、共通するコンセプトは何だろうか?と想いを巡らせました。

そして心に浮かんできた言葉が「生命(いのち)の躍動を発見し、参加へと育てる」です。(前述の生命レベル、生活レベル、人生レベルとはまた異なる次元なので、生命の読みを「いのち」としました)

これは、「親がICFを活用して、どのようにわが子に接すればよいのか?」に対するひとつの答えでもあります。

まず、親はICFを活用して、わが子の心身機能(の障害)が、どのように活動を制限し、参加の制約しているのかを理解し、関係者と共有することが大切です。

しかしそれだけでなく、どうすれば(どんな合理的配慮を用意すれば、あるいはどんな個人因子のバージョンアップがあれば)活動の制限を緩和したり、参加を促進できるのかを見出さねばなりません。適切な背景因子のビルトイン(組み込み)は、ICFの悪循環を逆転させる(好循環させる)ことで、小児がん経験者の生きがい感を向上(p4参照)させることができるのです。

そのような好循環をつくり出そうとする時に、最も大切な視点は、この子は何に「こころ躍らせている」のか?ではないでしょうか。「そうか、この子はこれが好きで、これなら一生懸命やっている」、「このことなら本当に無心に嬉々としてやっている」ということに気づいたら、その生命()の躍動が、日常に適切に組み込まれるようにICFをデザインし直します。そしてその躍動の機会を軸に「参加」へと育てていくのです。

生命の躍動を感じる機会や事柄は、趣味や関心事のひとつとして個人因子に入ります。

「参加へと育てる」とは、Aさんの作品がイベント会場で完売したように、その機会を通じて人と交流するということです。例えばブログを書いてそこに作品の写真を載せると、もっと交流は広がるでしょう。「参加へと育てる」ことで、つながり合い、認め合いが次々と生まれます。個人因子である生命(いのち)の躍動が、人との交流を通じてさらなる生きがい感へと拡大していくのです。

このことをもう少し具体的にみて行きましょう。


自然や動植物に関わり生命(いのち)の躍動を感じる

動物(犬、猫、馬、イルカ、昆虫、魚や水辺の生きもの)あるいは、植物(季節の花、発芽、つぼみ、花が咲く、実を付ける)の生き生きした躍動感と、自分の内なる何かが共振する。

動物介在療法、植物介在療法とは、こうした動植物と人間との間に生まれる相互作用を活用しています。(エスビューロー編「孤立うつ対策ハンドブック」第7章バイオセラピー参照)

前述ケーススタディのTさんは、今は月1回の農園作業が一番楽しいといいます。園芸プログラムに参加したNさんは、もともと動物好きでしたが、今回自宅で寄せ植えを育ててみて、芽が育ち、蕾をつけ、花びらが開いていくさまに「ハッとした」と言います。

アートや運動を通して内なる躍動を感じる、表現する
(音楽、絵、書道、手芸、クラフト、ダンス、コミュニティスポーツ)
 
♪ぼくらはみんな 生きている 生きているから 歌うんだ

ぼくらはみんな 生きている 生きているから かなしいんだ

手のひらを太陽に すかしてみれば まっかに流れる ぼくの血潮(ちしお)

ミミズだって オケラだって アメンボだって

みんな みんな生きているんだ 友だちなんだ♪

 ご存知のように、これは人気のアニメ「それいけ!アンパンマン」の作者やなせ・たかしさん作詞の唱歌「手のひらを太陽に」の一節です。

まさに、内なる躍動が音楽(歌)として表現されたものの代表ではないでしょうか。歌だけでなく、踊りもそうでしょうし、絵やクラフトにもそうしたものは表現されます。

ケーススタディにあったようにIさんはお父さんとサーフィンするのが好きですが、日頃は、ビニール袋に穴を開けて、ドレスにし、リボンを貼り付けてクルクル回る、いわば服飾アートごっこを楽しそうによくやっていると言います。

Aさんは、手芸クラフトが得意で、私たちにいつも作品を見せてくれます。お母さんいわく、手先が器用でいろいろなものをコツコツ作るのが好きなのだそうです。そしてAさんのつくった作品は売れました。「売れた」ということは、「価値が認められた」ということです。

Hさんは親しい友人が2人できました。3人でライブに行くのが楽しいといいます。3人のなかではHさんが路線と時刻表をアプリで調べて、待ち合わせを決めるといいます。友人と「つながり」、グループの中で役割が「認められている」のです。

AさんやIさんのお話は、内なる躍動を、ささやかな「参加」へと上手に育てた例ではないでしょうか。こうした話をしている時、お母さん、ご本人もリラックスして表情を崩されます、特にお子さんの目は輝き、やっと興味が出てきたという感じでした。私たちもお聞きしていて楽しいのです。

91歳の影絵作家、藤城清治さんが影絵を切る時の心境を次のように語っておられます。


木は生命の象徴といってもいいでしょう。・・・

その美しい木の葉を一枚一枚切り抜いていく。これが影絵制作の真骨頂です。・・・

文字通り一枚一枚の葉を根気よく、ごまかすことなく切り抜いていく。木の葉を一枚切るごとに喜びが増し、美しさが大きくなっていきます。切り始めたら、やめられなくなってしまう楽しさです。

よく人に「細かい木の葉をきるのは大変でしょう」といわれるけれど、僕は木の葉をきるのがうれしくてしょうがないのです。

  一見、同じように見える木の葉もみんな形がそれぞれ微妙に違っています。同じ種類の木の葉でも、一枚として同じ形はありません。自然のもつ奥深い、不思議な魅力を感じて驚いてしまいます。僕も一枚一枚、あっち向いてこっち向いて木の葉の形や波と葉の間の形を考えながら切って行くのがとても楽しい。それに、リズムにのって楽しく切らないと、木の葉も躍動

また、切っていく上で大切なのは自分の呼吸です。自分の息づかい、リズム、それがうまくからみ合って、大自然の神秘に挑戦していけるのです。切っていくうちに神経が集中し、研ぎ澄まされていきます。気がつくと、祈りのような思いがこめられています。

  特に木の葉をきるときは、片刃のカミソリの刃でないと葉っぱが生きてきません。カミソリの刃だと、人差し指の先が刃物になったように思えて、自由自在にひねったり、力の強弱をつけたりして、自分の息づかいを感じているような切り方ができるからです。カッターでは、なかなかそういう感じにはなりません。

  僕は木の葉を切るとき、いちばんの喜びと幸せを感じます。・・・

深夜や明け方まで夢中で切っていて、僕は自分で折ったカミソリの刃の屑の上に座って、傷つくのも知らずにのめり込んでいることもしばしばです。・・・

一本の木を見た僕たちが、そのいのちを表現するには、その木をじっと観察して、そこから様々なものを感じなければ描いたり切ったりできないと思うのです。

(『光は歌い影は踊る』藤城清治著)

藤城さんは、木の葉に生命の躍動を見て、その躍動に自分自身の内なる躍動を共振させているのだと思います。そして無心に影絵を切っているのでしょう。素晴らしい作品として世に認められたから意義があるという訳ではないでしょう。藤城さんに才能があったからできたのだという解釈も違うと思います。それは結果に過ぎません。大切なのは、その創作している過程で、生命の躍動を感じ、よろこびを感じて表現しているかどうかではないでしょうか。

そしてこれは、意識しさえすれば、余計な先入観を捨ててみれば、誰にでもあることではないでしょうか。はじめは微かかもしれないその喜びを、人と分かち合い、共有することができるなら、それは大きな生きがいへとつながっていきます。

それが人生レベルである「参加」のもつ大切な意義なのではないでしょうか。

生命(いのち)の躍動を参加へと育てる

ICFは、小児がん経験者の、生きがい感を高めるツールとして、活用できるのです。